生きてる方に賭けを打つ
びっくりした。
こんなにわかりやすくスーッと入ってくる言葉を語る
お坊さんの話をはじめて聞いた気がします。
仏教に興味が無い訳ではないのです。
というか宗教そのもの、宗教を生み出す人間の心
そしてその生み出した宗教をすがる人間の心の入れ子構造が
僕の興味の中心であると言っても過言ではありません。
それを自分なりの具現化ということで制作をしているのです。
仏教に僕の知りたいことが隠されているだろうということは
何となく感じているのです。
成り行きとは言え善光寺の門前に暮らすことになった運命に
不思議さを感じてもいるのです。
それで何かにつけ善光寺さんに参拝もするのです。
ただ仏教の言葉を前提に引用して語られる話に
心を動かされることは少なく、
むしろ外から仏教を研究している人の言葉に惹かれました。
一昨年ブログに書いた方便は親鸞を研究した
東大教授の安冨歩氏の研究成果だし、
その他にも最近読んだ本で非常に面白かった
『つぎはぎ仏教入門』を著した呉智英氏は
自身を仏教徒ではないと冒頭でことわっています。
恐山院代、南直哉(みなみじきさい)師の話は
仏教そのものに力点を置かず、
人生の葛藤にどれだけ仏教が寄り添えるかという立ち位置で
話していて非常に興味深いのでした。
宗教はたくさんあるけれど僕が感じていることでいえば
宗教とはその文化のなかでどうやって『死』を相対化するか
ということが大きな役割の一つと考えているのですが、
南直哉師はスパッと喝破してくれていて心地よいのです。
「生きてる方に賭けを打つ」
僕の他にもこれに響いてくれる人がいるといいななんて思いました。
こんなにわかりやすくスーッと入ってくる言葉を語る
お坊さんの話をはじめて聞いた気がします。
仏教に興味が無い訳ではないのです。
というか宗教そのもの、宗教を生み出す人間の心
そしてその生み出した宗教をすがる人間の心の入れ子構造が
僕の興味の中心であると言っても過言ではありません。
それを自分なりの具現化ということで制作をしているのです。
仏教に僕の知りたいことが隠されているだろうということは
何となく感じているのです。
成り行きとは言え善光寺の門前に暮らすことになった運命に
不思議さを感じてもいるのです。
それで何かにつけ善光寺さんに参拝もするのです。
ただ仏教の言葉を前提に引用して語られる話に
心を動かされることは少なく、
むしろ外から仏教を研究している人の言葉に惹かれました。
一昨年ブログに書いた方便は親鸞を研究した
東大教授の安冨歩氏の研究成果だし、
その他にも最近読んだ本で非常に面白かった
『つぎはぎ仏教入門』を著した呉智英氏は
自身を仏教徒ではないと冒頭でことわっています。
恐山院代、南直哉(みなみじきさい)師の話は
仏教そのものに力点を置かず、
人生の葛藤にどれだけ仏教が寄り添えるかという立ち位置で
話していて非常に興味深いのでした。
宗教はたくさんあるけれど僕が感じていることでいえば
宗教とはその文化のなかでどうやって『死』を相対化するか
ということが大きな役割の一つと考えているのですが、
南直哉師はスパッと喝破してくれていて心地よいのです。
「生きてる方に賭けを打つ」
僕の他にもこれに響いてくれる人がいるといいななんて思いました。
修羅
東京ステーションギャラリーにて開催中の鴨居玲展を観に行った。
鴨居玲は僕にとってはちょっと特別な画家なのです。
どう特別なのかはここからリンクに飛んで頂く事として。
若い頃の僕は作品群全体のイメージとして鴨居玲の破滅への欲情をとらえていたのだが
今回 時系列で展示された作品群を見て、晩年に表現の道をひとつひとつ閉ざされ
もがき苦しむ鴨居玲像が僕の中で明らかとなり、非常に興味深かった。
「興味深い」なんてそんな軽い一言では言い表せないのだけれど。
その後、東京芸術劇場へ劇団“マームとジプシー”が演じる「cocoon」を観に。
僕が娘のように思っている子が出演しているのです。
若い女の子が走り続けるその舞台は
彼女だけでなく出演している子達みんなが
「表現をする」という事を知った喜びと苦しみに
満ちていて清々しかった。(演目は重いテーマなのだけれど)
あぁ、あれは若かったおれだ。
表現する事が面白くなりはじめたあの頃だ。
表現とはなにかがわからなくても突っ走っていたおれだ。
そして多分鴨居玲は少し先のおれだ。
やるべき事を探し、新たな表現方法を求め
しかしひとつひとつ出口が塞がれていくという状況に追い込まれていく
未来のおれだ。
どういう将来が僕を待ち構えているかなんてことは全然わからない。
しかし、いつも自分がこの先も表現するという道に身を置くことを思うとき
頭の中では宮沢賢治の「春と修羅」という詩の一節
「おれはひとりの修羅なのだ」
というフレーズが響く。

鴨居玲は僕にとってはちょっと特別な画家なのです。
どう特別なのかはここからリンクに飛んで頂く事として。
若い頃の僕は作品群全体のイメージとして鴨居玲の破滅への欲情をとらえていたのだが
今回 時系列で展示された作品群を見て、晩年に表現の道をひとつひとつ閉ざされ
もがき苦しむ鴨居玲像が僕の中で明らかとなり、非常に興味深かった。
「興味深い」なんてそんな軽い一言では言い表せないのだけれど。
その後、東京芸術劇場へ劇団“マームとジプシー”が演じる「cocoon」を観に。
僕が娘のように思っている子が出演しているのです。
若い女の子が走り続けるその舞台は
彼女だけでなく出演している子達みんなが
「表現をする」という事を知った喜びと苦しみに
満ちていて清々しかった。(演目は重いテーマなのだけれど)
あぁ、あれは若かったおれだ。
表現する事が面白くなりはじめたあの頃だ。
表現とはなにかがわからなくても突っ走っていたおれだ。
そして多分鴨居玲は少し先のおれだ。
やるべき事を探し、新たな表現方法を求め
しかしひとつひとつ出口が塞がれていくという状況に追い込まれていく
未来のおれだ。
どういう将来が僕を待ち構えているかなんてことは全然わからない。
しかし、いつも自分がこの先も表現するという道に身を置くことを思うとき
頭の中では宮沢賢治の「春と修羅」という詩の一節
「おれはひとりの修羅なのだ」
というフレーズが響く。

脱 両手だらり戦法。
みなさん、手帳ってどうなさってますのん?
スケジュール書いたり、ちょっとしたメモとか、
思いついたアイデアとか・・・備忘録ですよね。
使い方は知ってるつもりなんですよ。
人と会って話する時にさっと出して
「ちょっとまってくださいねぇ・・
その日は、その日は・・・・っと
大丈夫ですね。じゃ、その日にしましょう。」
なんてね、ちょっとカッコいいじゃないですか。
え?それが普通?別にかっこ良くも何ともない?
や、それが出来る人なら別に普通でしょうけど出来ないんですもん。
人と会うにしてもナンにしても基本手ぶら。
両手だらり戦法。
「とっつぁんよぉ・・えぐり込む様に打つべしってなぁ、
右手だっけ?左手だっけ?」とか、
「力石ぃ、オメェとの試合の日、いつだったかもういっぺん言ってくんねえか?」
とか。
「おぃおぃ、ジョオォォ、試合始める前から
両手だらりでそうすんだよぉ。」
ってとっつぁんに怒られちまいそうです。
試合の前からアタマん中は真っ白な灰・・・・
手帳買う時は吟味するんです。
あ、この組み方わかりやすいじゃん。とか思いながら・・
ひとつ、ボクには世界中を股にかけて働くような忙しい方の
使う手帳は使いこなせない。ってことはわかったんです。
年々シンプルな構成のスケジュール表になってきました。
今年の手帳は厚さ5mmを切りました。
薄くて頼りなくて簡単になくしてしまいそうです。
しかしそこはそれ、作り手ですから
なんか技術でカバーすればいいじゃないですか。
技術でカバーしつつカバー作ればいいじゃないですか。
技術でカバーしつつ、カバー作ることによって
僕自身の不備をカバーすればいいじゃないですか。
自分で作れば愛着もわいて日頃から持つ様になりそうじゃないですか。
・・で、作っちゃいました。革で。
こんなことは得意なんです。
ボクの血を引いた息子と娘もとっつぁんに叱られるタイプかも知れません。
先回りして彼らにも手帳の使い方教えといてやろう。
と思って子供の分も作っちゃったりしました。
息子はことし二十歳。娘は今年受験生。
手帳のひとつくらいは持っといた方がいいのです・・・
娘は持ってました。そんで使いこなしてました(泣)
いいんですいいんです。父親の独りよがりで。
さて、今年はスケジュールちゃんとつけるぞぉ。
仕事バンバンくださいー!
写真は息子と娘に作ったもの。非売品です(笑)

スケジュール書いたり、ちょっとしたメモとか、
思いついたアイデアとか・・・備忘録ですよね。
使い方は知ってるつもりなんですよ。
人と会って話する時にさっと出して
「ちょっとまってくださいねぇ・・
その日は、その日は・・・・っと
大丈夫ですね。じゃ、その日にしましょう。」
なんてね、ちょっとカッコいいじゃないですか。
え?それが普通?別にかっこ良くも何ともない?
や、それが出来る人なら別に普通でしょうけど出来ないんですもん。
人と会うにしてもナンにしても基本手ぶら。
両手だらり戦法。
「とっつぁんよぉ・・えぐり込む様に打つべしってなぁ、
右手だっけ?左手だっけ?」とか、
「力石ぃ、オメェとの試合の日、いつだったかもういっぺん言ってくんねえか?」
とか。
「おぃおぃ、ジョオォォ、試合始める前から
両手だらりでそうすんだよぉ。」
ってとっつぁんに怒られちまいそうです。
試合の前からアタマん中は真っ白な灰・・・・
手帳買う時は吟味するんです。
あ、この組み方わかりやすいじゃん。とか思いながら・・
ひとつ、ボクには世界中を股にかけて働くような忙しい方の
使う手帳は使いこなせない。ってことはわかったんです。
年々シンプルな構成のスケジュール表になってきました。
今年の手帳は厚さ5mmを切りました。
薄くて頼りなくて簡単になくしてしまいそうです。
しかしそこはそれ、作り手ですから
なんか技術でカバーすればいいじゃないですか。
技術でカバーしつつカバー作ればいいじゃないですか。
技術でカバーしつつ、カバー作ることによって
僕自身の不備をカバーすればいいじゃないですか。
自分で作れば愛着もわいて日頃から持つ様になりそうじゃないですか。
・・で、作っちゃいました。革で。
こんなことは得意なんです。
ボクの血を引いた息子と娘もとっつぁんに叱られるタイプかも知れません。
先回りして彼らにも手帳の使い方教えといてやろう。
と思って子供の分も作っちゃったりしました。
息子はことし二十歳。娘は今年受験生。
手帳のひとつくらいは持っといた方がいいのです・・・
娘は持ってました。そんで使いこなしてました(泣)
いいんですいいんです。父親の独りよがりで。
さて、今年はスケジュールちゃんとつけるぞぉ。
仕事バンバンくださいー!
写真は息子と娘に作ったもの。非売品です(笑)

死が似合わない人
10月28日、赤瀬川原平さんが亡くなった。・・・らしい。
なんかいまだ現実感がなくて喪失感を味わうこともない。
しかし、今の僕を形成する僕のヒーローの一人だ。
なんだろう?認めてないのかな?赤瀬川さんの死を。
死というものが全然似合わないんだもん。
僕にとっては世界の見方を教えてくれた人の様に思っている。
それほど興味のある事柄についてのおもしろがり方が秀逸なのだ。
そして興味を持つ対象が粋なのである。
ハイレッドセンター、ネオダダイズムオルガナイザーズ
梱包、千円札、裁判、桜画報、トマソンから始まる考現学、路上観察学会、
新解さん、内田百閒、宮武外骨、クラシックカメラ、印象派・・
物事を相対化させること、そしてその相対させるものの軸のとりかた。
常に真面目で、真面目の軸がナナメ。
あ〜あ、もういないのかぁ。
いないってだけで死んではいないんじゃない?
だって死というものが全然似合わないんだもん。
いないのは似合うけど。
なんかなぁ・・・。
またいろいろ読んでみるかな。
とりあえず芥川賞受賞作品からいってみますか。

なんかいまだ現実感がなくて喪失感を味わうこともない。
しかし、今の僕を形成する僕のヒーローの一人だ。
なんだろう?認めてないのかな?赤瀬川さんの死を。
死というものが全然似合わないんだもん。
僕にとっては世界の見方を教えてくれた人の様に思っている。
それほど興味のある事柄についてのおもしろがり方が秀逸なのだ。
そして興味を持つ対象が粋なのである。
ハイレッドセンター、ネオダダイズムオルガナイザーズ
梱包、千円札、裁判、桜画報、トマソンから始まる考現学、路上観察学会、
新解さん、内田百閒、宮武外骨、クラシックカメラ、印象派・・
物事を相対化させること、そしてその相対させるものの軸のとりかた。
常に真面目で、真面目の軸がナナメ。
あ〜あ、もういないのかぁ。
いないってだけで死んではいないんじゃない?
だって死というものが全然似合わないんだもん。
いないのは似合うけど。
なんかなぁ・・・。
またいろいろ読んでみるかな。
とりあえず芥川賞受賞作品からいってみますか。

方便
学生時代、ずっと電気工事のアルバイトをしていた。
もちろん学校があるから休みの日にである。
なにせバブルの最中の事であるから、忙しく、仕事の規模もでかかった。
夏休みなど、家に帰らずバイト先の社長宅で合宿しているようなものだった。
工事から帰ってそのまま呑みに連れてもらったりしていた。
電気工事の社長は仏教について深く勉強しており、
また、学生時代の僕のような青二才の言う事にもきちんと耳を傾けてくれた。
呑みにいって話が深まると「親鸞さんはこんなふうにゆうとる」
などと仏教に関する教え、言葉など教えてくれた。
実際のところは話を聞いてもわかった事などあんまりなかったんじゃないかなー?
と今さらながらに思える。
たくさんいい話聞かせてくれてたのになあ。
名実共にりっぱに(「りっぱな」ではない(苦笑))中年となり、
このところなにを求めてなのか、PCにスピーカーを繋ぎ
いろんな講演会や講義をyoutubeで聞きながら仕事している。
東大の先生であるこの安冨 歩氏の動画を見つけたのも
そうやって面白い話を探していてのことだ。
僕が求めていたからなのかもしれないが
この人の話はスムーズに身体に流れていく感じがした。
もうこればかり7〜8回も繰り返し聞いている。
生きにくい世の中になったと言われてずいぶん経った。
震災を経て、復興もままならず、
多数の人が求めてもいない法律やシステムが次々現実化されていき
不条理感に憤る毎日でもある。
戦争に向かって進んでいくのではないかと
不安にかられる日々でもある。
この不安定な世の中にあって自分の心の置き方をどうすればいいのか。
その答えのひとつが、僕にとってはこの講演会に出てくる、
親鸞の「方便論的個人主義」である気がしている。
戦う時は戦わなければならない。
言わなきゃならない事は言わなきゃならない。
しかしその不条理をもたらすものも自分が一歩前へ進める「方便」なのだと
理解したとたんに今の世の「生きにくさ」すら糧に出来る精神状態を得られる
という気がしている。
電気工事の社長からたくさん仏教の話を聞いた。
あのとき蒔いてくれた種が20年以上も経って
ようやく芽を出した。
そんなこんなのタイミングで
明日は3月11日。
もちろん学校があるから休みの日にである。
なにせバブルの最中の事であるから、忙しく、仕事の規模もでかかった。
夏休みなど、家に帰らずバイト先の社長宅で合宿しているようなものだった。
工事から帰ってそのまま呑みに連れてもらったりしていた。
電気工事の社長は仏教について深く勉強しており、
また、学生時代の僕のような青二才の言う事にもきちんと耳を傾けてくれた。
呑みにいって話が深まると「親鸞さんはこんなふうにゆうとる」
などと仏教に関する教え、言葉など教えてくれた。
実際のところは話を聞いてもわかった事などあんまりなかったんじゃないかなー?
と今さらながらに思える。
たくさんいい話聞かせてくれてたのになあ。
名実共にりっぱに(「りっぱな」ではない(苦笑))中年となり、
このところなにを求めてなのか、PCにスピーカーを繋ぎ
いろんな講演会や講義をyoutubeで聞きながら仕事している。
東大の先生であるこの安冨 歩氏の動画を見つけたのも
そうやって面白い話を探していてのことだ。
僕が求めていたからなのかもしれないが
この人の話はスムーズに身体に流れていく感じがした。
もうこればかり7〜8回も繰り返し聞いている。
生きにくい世の中になったと言われてずいぶん経った。
震災を経て、復興もままならず、
多数の人が求めてもいない法律やシステムが次々現実化されていき
不条理感に憤る毎日でもある。
戦争に向かって進んでいくのではないかと
不安にかられる日々でもある。
この不安定な世の中にあって自分の心の置き方をどうすればいいのか。
その答えのひとつが、僕にとってはこの講演会に出てくる、
親鸞の「方便論的個人主義」である気がしている。
戦う時は戦わなければならない。
言わなきゃならない事は言わなきゃならない。
しかしその不条理をもたらすものも自分が一歩前へ進める「方便」なのだと
理解したとたんに今の世の「生きにくさ」すら糧に出来る精神状態を得られる
という気がしている。
電気工事の社長からたくさん仏教の話を聞いた。
あのとき蒔いてくれた種が20年以上も経って
ようやく芽を出した。
そんなこんなのタイミングで
明日は3月11日。